この道の向こうに
 目的地なんかなくて
 いま踏みしめるこの一歩が
 いつも目的地だったのだ
 ある朝、妻と二人で朝食を終え、食器を持って流しに持って行く時に、ふざけて、ものすごくゆっくりと歩いてみました。一呼吸につき足ひとつ分。ヒタ…ヒタ… 当然目の前の流しになかなか辿り着きません。ポカーンとした顔で眺めていた妻が言いました。
「何それ、からくり人形のまね?」
 いや、と私は応え、続けて言いました。
「歩く瞑想。禅宗では、坐禅と坐禅のあいだにこうして歩いたりもするみたい」
 妻は、ふーん、と言い、たまに歩かないとおかしくなっちゃうからかな、と言い、私も、そうかもね、と応じて、そのままなんとなく、朝の忙しい時間の中に二人で戻って行きました。
 歩く瞑想(経行(きんひん)とも言ったりします)に関しては、様々なやり方があるようですが、基本的には、特定の目的地に向かう「手段」としての歩行ではなく、歩くという動作そのものを「目的」として行うということです。その意味で、気分転換やエクササイズなどを「目的地」とした散歩とも、少し違うかもしれません。
 悲しい時も苦しい時も、また嬉しい時も幸福の時も、心がどうあろうとこの体は、同じ呼吸をし、同じ一歩を踏み出すいのちなのだいうこの瞑想のメッセージを、私は妻に伝えたかったのかもしれません。
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