私が求めるより先に
私が求められていたのだ。
求める心は
私より深いのだ。
和田稠
以前に新聞の投書欄で、ある女性が書いていたことが印象に残っています。
その方は、ずっと主婦をなさっていた方でした。会社勤めの夫は、昼間は家におらず、夜も外で食べて帰ることが多かったので、彼女は一人での食事を気ままに楽しむという生活を送っていました。しかし、夫が定年退職してから、急に常時三食を共にするようになると、食事を作ることがだんだんと億劫になってきました。割と味に注文をつける夫で、「ちょっとしょっぱいな」「これは味が薄い」とたびたび何か言ってくるので鬱陶しく、正直なところ、「一人で食べていた頃のほうがよかった」と思っていたそうです。
しかし、ある時夫が病を得て、比較的早くに亡くなってしまいました。気持ちの落ち込みが続き、何日も食事を作ることもできず、やっと台所に立てたのは、四十九日まであと数日となった頃だったそうです。気がつくと、なんと料理は二人分できていました。あれほど面倒だった二人分のご飯支度、夫と共にしていた食事が、いかに自分を支えていたかを、その時に思い知らされたと書いておられました。
私が何を願っているか、というのは、仏教において「浅い願い」と説かれます。もっと深い願いとは、「願われていた」ことに気づく、という形で初めて出遇うものなのでしょう。
0コメント