11月 今月のことば

悲しみこそ
光なのではないか
     若松英輔


 お寺の次男として生まれ、小さな頃から毎月のお講などの機会に、座って法話を聞く機会はよくありましたが、その頃は話が響いてくるはずもなく、ただただ足が痛いのと退屈とで、時間をやり過ごすことに精一杯でした。しかし、次第に法話を聞くことが好きになり、やがて本気で仏教に触れようと決意してからは、聖典を読むようにもなりました。
そんな私は、いつもいつも教えの言葉に感動するわけではないことを、まず白状しなければいけません。すべてが白々しく、大事なことはどこか別のところにあるように感じられる時があります。一方で、乾いた体に水が沁み込むように、教えが自然と心に響いてくる時もあります。これまでの半生において何度かは、頭を下げて深く教えの言葉に頷き、涙を流して「その通りでした」とひざまずいた経験もあります。
その違いは一体どこから来るのかと振り返ってみると、教えが響かない時というのは、生活の中で特に不満や問題を抱えていないか、あるいは経済的な問題だけに頭を占領されているような時でした。そして、教えが響く時というのはほぼ例外なく、一人の人間としての自分自身に大きな問題を感じている時や、深い悲しみ、苦しみにさいなまれている時だったのです。
悲しみを通してのみ、教えという光に出遇えるのならば「悲しみこそ光」だと言えるかもしれません。

西方山 極楽寺

大阪府八尾市にある、真宗大谷派のお寺です。

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