頼り、頼られ、
互いにいのちを
生きていることを
心に描くこと
最首悟
メディアでも有名な本願寺派の僧侶、釈徹宗さんが書いていた事ですが、ある日、釈さんのお寺に社会見学で訪れた小学生が、「お寺って一体何の役に立っているんですか?」と訊ねたそうです。一瞬迷った釈さんは、結局普段から思っていたことをそのまま答えました。「あのね、何の役にも立たないと思います」
この答えはもちろん子ども達を困惑させ、釈さんは慌てて「お寺は、役に立つ、役に立たないという二項対立から離れるための場所であるべき」、という本意を伝えようと言葉を重ねたそうですが、どうやらうまく伝わらなかったそうです。
でもこれは、僕が自分自身に感じていることでもあります。僧侶として生きていくということは、ある意味で「有能な人材」であることを諦めたということなのですから。何か便利なものを作り出すのでも、暮らしを快適にするサービスを提供できるのでもなく、およそ自分は「役に立つ」とか「生産性」とはかけ離れた人間だなあと、つくづく思います。
役に立たないからこそ、人からの施しによって生かされるしかないわけですが、それでも「私は何かの役には立っている」と思いたい。そこで自分に言いきかせます。「私なんか何の役にも立たない」、という思いに沈む人に、「役に立たなくていいんです」と本音でもって寄り添うことだけはできるはず、と。
0コメント