(※)生死を離れるというのは、
生死を引き受けて
生きるということだ。
(※生死…「迷いと苦しみ」を意味する仏教語)
藤田一照『テーラワーダと禅』より
日本の仏教は、様々な宗派に分かれていますが、世界的に見ると、それらは全て「北伝仏教」という大きな流れの中に含まれるものになります。それに対しては、「南伝仏教」という、スリランカや東南アジアに伝わった仏教が存在します。その二つの流れは、お釈迦様の死後100年頃に分裂し、以後基本的には交わることなく、現代まで独自の歴史を刻んできました。
もちろん仏教というからには、二つの流れに共通の認識というものがあります。言葉にすると、「あらゆるものは変化する、あらゆるものはそれ自体で存在していない、そのことに気づかない『執着』こそが迷いであり、迷いを離れた静かな境地こそが悟りである」ということになるでしょうか。
そしてその二つの違いを、枝葉を省いた大雑把な解釈で言うと、南伝は「テーラワーダ」と呼ばれ、実際に生きた人物としてのお釈迦さまが残した言葉を忠実に学ぶことを基本としています。お釈迦様の導きに従えば誰でも、「悟り」に達することができると考え、戒律や瞑想の実践を重んじています。一方北伝は、「大乗仏教」と自称し、人間が執着を離れた「悟り」の境地に達することは「できない」と考える傾向が強く、悟れない人間が救われるとはどういうことか、を課題にしていると言っていいかと思います。
迷いを離れる道と、引き受ける道、と言ってもいいかもしれません。双方学べば奥が深いのでしょう。
0コメント