耳は判断しない
正しいとも 間違っているとも
覚和歌子 「世界は音」より
ブッダ(目覚めた人)の呼び方に「如来」という呼称があります。「如」の意味は、「ありのまま・あるがまま」。つまり、目覚めとは何かといえば、「ありのままを受け止められる」ことだと理解できます。
私たちは、何か出来事に会ったときに、そこに何か意味を見出したり、価値を付け加えたりせずにいられません。そこで湧いてくる「怒り」やら「悲しみ」やらを出来事とセットにして持ち歩くわけですが、本当は意味や価値などなく、ただものごとが「そうある」だけ、なんですよね。
先日の永代経でもお話ししたのですが、このことについて考える出来事がありました。
最近、私はよく本堂で「坐る瞑想」のようなものをやっています。そのとき、本堂の時計の音がずっと気になっていました。夜、輪灯の明かりだけを灯して、静かな本堂で坐っていると、「チックタックチック…」という掛時計の音だけが妙に際立つのです。邪魔だなぁ、時計買い換えようかなぁ…とすら考えていました。しかしある日、妻が「一緒に坐る」と言うので、一緒にしばらく坐りました。そして感想は「なんだかいいね。特に時計の音が」というものでした。
実際のできごとはただ、「時計が鳴っている」だけです。私はそこに「邪魔」という意味を与えて、勝手に苦しんでいたことに、その一言で気付かされました。
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