祈りが無力なのではありません
祈ることを忘れた心が無力なのです
対本宗訓(禅僧 医師)
僕は現在、臨床宗教師という認定資格取得の学びをしています。それは、終末期の方や被災者など、命に向き合う方に寄り添うとはどういうことかを学ぶもので、現在、東北大学の文学研究科が主催する講座で、全国の様々な宗派の宗教者、あるいは医療、福祉関係者らとともに、勉強しています。2年間の学びの1年目を終えたところで、これまではオンラインの講義が主でしたが、実際に仙台に集まることもあります。
先日も、仙台での二日間の研修に行って来たのですが、そこでのテーマは主に、「自分の感情に向き合う」というものでした。僕は最初、「どういうこと?」と思い、研修の意図が読めなかったのですが、だんだんと、「自分の感情に鈍感であるうちは、目の前の人の、あるいは目の前にいない人の感情を敏感に想像することができない」ということがわかってきました。
たとえば、目の前に「私なんかもう生きていたってしょうがない」と言う人がいたとして、そんな時僕は「え…ここはなんと言うべきなんだろうか」と考えてしまいます。ということは、取るべき選択肢を頭で考えて、正解を出そうとして…とやっているわけで、それでは、目の前の人が本当にどういう思いでいるのかなど、二の次三の次になってしまっているのでした。
僕は今、これまでの生き方をまるごと考え直す、強烈な学びをしているような気がしています。
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