12月 今月のことば

私たちはまだ、
差別の存在を否定するのではなく、
もっと差別を発見しなければ
ならない時代を生きているのだ。
キム・ジヘ『差別(さべつ)はたいてい悪意(あくい)のない人(ひと)がする』より


 11月は、本山(東本願寺)の報恩講が勤まっていました。ここ数年はインターネット配信もしているので、僕も、時間が空いている時に何度かお勤めを見ることができました。厳粛な空気が画面越しにも伝わって来ますし、ありがたいことだなと素直に思います。
 しかし今年は、御影堂内陣での儀式を見ながら、今まで感じたことのない思いを抱きました。それは、
「たくさん人が座っているけど、全員男性なんだな」
という思いです。これまでも儀式を見てきて、ずっとそこにはほとんど男性しか座っていなかったのですが、初めて「いや、それってどうなの?」という疑問をもって眺めている自分に気がついたのです。
 そして、28日の「坂東曲(ばんどうぶし)」のお勤めなど特に、大勢の野太い声が雄々しく響き渡り、迫力のあるお勤めになればなるほど「男性感」はより前面に出て来て、僕の疑問は膨らんでいきました。
「僕が当たり前のものとしてきたこの光景は、本当に当たり前だと思っていていいんだろうか」
「こんなふうに表で、前面に立っている人間が男性ばかりだった時、そこに何も感じないでいられたのは、僕が男だったからなんじゃないだろうか」
 何が正解とか、どうあるべきだということは言えません。しかしとにかくそこには偏りがあるし、その偏りを認めることが、まずは大切なことと思います。

西方山 極楽寺

大阪府八尾市にある、真宗大谷派のお寺です。

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